Domaine Henri GOUGES 〜「ピノ・ノワールなミレジム」、2002年の今〜

(Nuits―Saint−Georges 2003.10.21)

 


 

 

醸造担当クリスチャン・グージュ氏。ブルゴーニュにおける「生産者元詰め」のパイオニアであり、ドメーヌの創始者でもある偉大な祖父、アンリ・グージュ氏の写真と共に。

 「2002年のブルゴーニュにおけるミレジムは傑出している」。ブルゴーニュの情報通がにわかに2002年のポテンシャルに注目し始めた。

 私自身今年に入り様々な2002年のキュヴェを試飲する機会に恵まれ、確かに2002年の持つ自然な骨格と複雑な深さ、そして何よりもブルゴーニュらしい純度の高さには非常に心動かされることが多い(もっとも訪問先が優れた生産者であることも大いに関係しているだろう)。そこでどうしても「自分の舌」で確かめておきたかったドメーヌの一つが、前回の訪問で見事なまでにニュイ・サン・ジョルジュの多彩な顔を体感させてくれたこのアンリ・グージュである。

 

(注)アンリ・グージュの基本的な説明は前回の訪問レポート「Domaine Henri GOUGES 〜ニュイ・サン・ジョルジュ プルミエ・クリュの主張〜」を参照してください。

 

ピノ・ノワールなミレジム

 

 2002年は一言で言えば『ピノ・ノワールなミレジム』、つまりまさに『ブルゴーニュ的なミレジム』であったと言えるだろう。

 9月上旬は長雨が降ったがその後、特に収穫の1週間くらい前(9/12〜)からは乾いて涼しい北風が吹く中快晴に恵まれた。そして更に良かったのは夜間が非常に冷え込んだこと。これにより酸が維持された状態で糖度がじっくりと蓄えられただけでなく、ピノ・ノワールに欠かせないアロマに素晴らしい複雑性が生まれた。

 加えて私達のドメーヌでは長年続けていたリュット・レゾネからビオロジーに移行して丁度2年が経過した年でもあり、土壌の改善が結果として出てきたところでタイミング的にも良かったと思う。

 最初の仕込みから1年たった今、ワインにはしっかりとした色合いと美しい輝き、深さが生まれ、調和の取れた豊穣さが際立っている」。

 醸造担当のクリスチャン・グージュ氏は静かに2002年を振り返る。2002年に関しては収穫直後から既に何度か当HPでも生産者達の声をお伝えしており、氏の言葉は彼らの声とほぼ共通するが、これもやはり「長雨を乗り越えることが出来た生産者」、すなわちエフォイヤージュ(摘葉)やヴァンダンジュ・ヴェルトを夏期に的確に行い、風通しを確保できた生産者とそうでない者とでは、この「ピノ・ノワールなミレジム」の恩恵の受け方もかなり異なってくるだろう。

 そこで早速、2002年のテイスティングである。

 

テイスティング

 ブルゴーニュ始め多くのワイン産地でのバレル・テイスティングでは、慣習的にグラスに残ったワインは樽に戻す。この慣習は部外者にとって最初は少し躊躇するものであるが、「アルコールであるから衛生的に問題は無い」と概念の基、高名な生産者でもこれを行う。しかしアンリ・グージュでは一度グラスに入れたワインは、惜しげ無く捨ててしまう。

「衛生面の問題ではない。ワインの『純粋さ』が樽によって変わりそうなのが嫌なんだ。だって想像してごらん。ある樽では瓶詰めまでに100回の試飲が行われたとする。ならば100杯分の十分に空気と接触したワインが樽の中に戻るんだよ。なんらかの変化が起こるはずだと思わないかい?

 これはあくまでも私の感覚的なものだし、慣習を廃止したのは2002年のミレジムからだから実際変化を感じるかどうかはこれから長い年月をかけて観察しなければ判らない。まぁ現時点では出来るだけワインの純粋さを守るための、一つの試みだけれどね」。

 ドメーヌの創始者であり氏の祖父にあたるアンリ・グージュ氏は、ヴォルネイのダンジェルヴィーユ氏と共に偽ワインが横行する1930年代、「生産者元詰め」の概念を広めた人である。案外バレル・テイスティングの慣習も10年後くらいには変わっているのかもしれない、ワインを捨てながらふとそんなことを思う。

 

 今回のテイスティング銘柄は以下。全て2002年のバレル・テイスティング。テイスティング順に記載。

〜ヴィラージュ〜

     ニュイ・サン・ジョルジュ

〜プルミエ・クリュ〜

* ニュイ・サン・ジョルジュ レ・シェニョ(Les Chaignots)

     ニュイ・サン・ジョルジュ クロ・デ・ポレ・サン・ジョルジュ(Clos des Porrets−Saint−Georges)

     ニュイ・サン・ジョルジュ レ・プリュリエ(Les Pruliers)

* ニュイ・サン・ジョルジュ レ・ヴォークラン(Les Vaucrains)

     ニュイ・サン・ジョルジュ レ・サン・ジョルジュ(Les Saint−Georges)

 

ドメーヌに現存する、最も古いミレジム1924年と1925年(これより古いものもあるが、区画などが現在では明瞭でない)。コオロギのいるカーヴにて(「コオロギが生息できるカーヴは昔から良いカーヴって言われているよ。たまに良い声で鳴いてくれるしね」とのこと)。

 重すぎないタンニンと酸のバランスが印象的だった2001年と比較すると、2002年は熟したタンニンとそれに呼応する上品なアルコールのバランスが、時にワインに噛めるような質感をもたらしており(しかし決して重くない)、昨年同時期に試飲した2001年よりもより深く閉じた様子に熟成のポテンシャルを大いに感じさせられるものだった。黒に近い赤いバラや湿ったスミレ、黒系果実がキュヴェ毎に異なるニュアンスを持って多彩に表れ、特に黒系スパイスの複雑さがどう変化していくかが興味深い。

 「タンニン、アルコール、酸のバランスはもちろん大切だが、偉大なワインと呼ばれるものに最も欠かせないのは『真に熟したタンニン』。このタンニンは種まで自然に完熟しないと得られないもので、これがワインに余韻まで続く奥行きのあるバランスを与える」。氏のその言葉に最も応えるのは、やはりレ・サン・ジョルジュではないだろうか?

「確かにレ・サン・ジョルジュにはグラン・クリュに匹敵するポテンシャルがあると思う。でも畑毎の風味の定義というのは簡単に出来るものではないよ。ミレジムの個性もあるし、私達ですら同じ樽のワインを同じ日の午前と午後に試飲して異なる印象を受けることがある。ましてやこれらのワインが瓶詰めされる時は各樽をアッサンブラージュしているのだから、今感じる印象とはまた違う印象をきっとあなたに与えると思う。それを常に念頭に置いて何度も試飲しなければ。

 一つの畑に関係するミレジム毎の天候、醸造における手段、人間とその体調、etc、、、。その中で唯一変わらないものがその畑毎の土壌であることはロジックだが、そのロジックも土とブドウの健康な調和が機能しなければ生かされない。そういう意味では、様々な変わりゆくものの中で本当の普遍性を表現するための有機的アプローチと言うのは、当然の帰結ではないだろうか。『土を尊敬する』というのはワイン造りにおいてポジティヴな観念であると思うし」。

 慎重な氏の言葉に、ショートカットして畑の個性を語りがちな自身の試飲の姿勢を少々戒められた感がある(反省)。しかし同時に、殆どのブルゴーニュの生産者が「ブルゴーニュのテロワールの素晴らしさ」を前面にアピールする最近の風潮に抵抗を感じている私にとって、氏の言わんとすることは理解できるのである。なぜなら優れた土壌を謳っても、ブドウ根が母岩に達さず地表に這い、またミネラルをブドウ根が吸収できる形に変換する微生物が存在しなければそれは主に排水・保水性の有利・不利に終わるであろうし、加えて高度や傾斜度による日照量の違いなども風味に差違を与えているはずであるからだ。もちろんこれらも重要なテロワールの要素ではあるが、真に土壌による差違(優位性)を掲げたいのであれば、「土に立ち帰る」という代償は必要不可欠であると思われる。

 アンリ・グージュの名声を蘇らせた一人(もう一人は栽培担当のピエール・グージュ氏)である氏には、浮かれた見解は全く無いようだ。

  

瓶詰めまで

 「醸造に過剰なテクニックは必要無し。でも醸造の自然な流れの中で、酸化と還元のメカニズムを知ることはとても重要だ。適切な時期に澱引きなどを行って酸化を促しタンニンの風味を引き出してあげることは必要だが、そのまま樽の中で風味が全開してしまうと瓶詰め後に一気に『落ちて』しまうリスクがある。瓶詰め前にはワインが眠っている(還元状態)であり、瓶詰め前の一連の作業によりワインが目覚める状態が理想的」。

 最終的にアンリ・グージュで瓶詰めが行われるのは、カーヴの気温が低温期(温度調整されていないカーヴでは冬期と夏期で最高4〜5℃の気温差がある)である1〜4月の間であり、また澱引きや瓶詰め等の作業の時期を決定するのには、澱が落ち着いている日を見極めるために月の満ち欠けを利用する。アンリ・グージュ始め、「醸造は基本的に無干渉主義」である生産者達の話にはいつも膨大な観察と自身が目指すスタイルに適した経験則が垣間見え、それはまるでワインの科学を肌で感じ取っているようだ。ワインに介在する一個人の重要さを改めて思う。

 この日試飲した2002年も、昨冬に続き2度目の冬眠を瓶詰め前まで貪るのであろう。そして2002年の各キュヴェの個性を1回の試飲で語るのは早計であったとしても、そこにミレジムのポテンシャルが感じられたのも事実である。そのポテンシャルは氏の丁寧な手腕によって、きっと綺麗にボトルの中に移し取られるはずである。