Domaine Philippe GOULLEY 
シャブリにおける、ビオロジーとは?〜

(La Chapelle Vaupelteigne 2003.10.16)

 

 

フィリップ・グーレイ氏。人口100人のLa Chapelle Vaupelteigne(シャブリより車で約10分)にドメーヌを構える。

ワイン上級者(?)と言われる愛好家にはなぜか二の次にされてしまう、ブルゴーニュの有名産地、シャブリ。確かに産地の名前に甘えて薄っぺらなシャブリが幅を利かせている事実があり、二の次にされてしまうのはシャブリ側にも責任があるのだが、そこには十把一絡げにしてはいけない優れたテロワールがあり、それを生かそうとする生産者達が多々存在することも当然ながら事実である。

ところで「ブルゴーニュにおけるビオの動向とは?(当HP)」を書くうちに、シャブリにはビオを実践している生産者が非常に少ない事に気が付いた。私が調べた限りビオとして公式に認定されているのは「カトリーヌ・モロー(エコセール認定)」と今回訪問を決めた「ドメーヌ・フィリップ・グーレイ(カリテ・フランス認定)」の2人のみ。もちろん申請をしていない生産者もいるであろうし、有名なラヴノーも有機的アプローチを古くから試みている。

ビオ=良質なワイン、という図式は決して成立しないが、テロワールを声高に主張する国であればこそ土への回帰は避けられないと個人的には考えているので、そこにはなんとなく生産者の意識の低さを感じてしまう。シャブリが抱える問題とは一体何なのであろうか?

 

シャブリにおける、ビオ実践の困難性

  「除草剤の使い過ぎで、土が死んでいると感じたから」。

フィリップさんにビオロジー実践の動機を尋ねると、真っ先に返ってきた答えである。そしてこの「除草剤」こそが、シャブリがビオに及び腰であるジレンマであった。

シャブリにおいて栽培上、最も壊滅的なダメージを受けるのが春の遅霜。芽吹きの後、5月上旬まで時に夜中に氷点下以下に気温が下がることがある。夜中に畑中でストーブを焚いている写真を見たことがあるかい?霜は湿気がありそして急激に気温が下がった時に生じるが、この『湿気を蓄える元凶』となっているのが、畝に生えている雑草なんだ。

畑の杭に備え付けられた、春の霜害対策用の水道管。

ビオロジーを実践すれば当然除草剤は使わないし、雑草とブドウ樹を競合させる。でもそれはこの地にとって、多大なリスクを背負うことにもなる。シャンパーニュもシャブリほどでは無いが、霜害はやはり深刻で、彼らが除草剤に頼らざるを得ない理由の一つだよ」。

1997年、この年の霜は彼にとって忘れられないものである。5月8日、彼はアルザスでの展示会に参加していたが、霜の予報が届いており、展示会終了後8時間かけてトラックで帰宅、徹夜で溶接バーナー片手に不要な雑草を一つずつ刈り取っていったらしい。

時代は有機的アプローチに流れてきているが、この地で実際行動に移すには心理的な恐怖が凄く大きい。寛容と勇気が必要なんだ」。

霜害との闘いは毎年続く。今年もシャブリの霜害は深刻であったし(もっとも彼にとっては「アルザスにいなかったので」疲労度は軽かったようだ)、彼自身土寄せ(霜害から株を守るために畑の土を寄せる作業)期間をぎりぎりまで引き延ばす等、試行錯誤を繰り返している。しかしそれでも畑に有用と判断した約20種類の雑草は頑としてブドウ樹と競合させるのだ。なぜならそれらの雑草は土壌を健康に保ち、最終的にはウドンコ病、ベト病といった隠花植物の発生を減らし、ビオの命題でもある「銅」や「硫黄」を含んだ化学肥料の使用を抑えることにも繋がるからである。

 

ドメーヌ・フィリップ・グーレイの今

 

 フィリップさんが2,5haのプティ・シャブリの区画を取得し、そこでビオロジーを実践し始めたのが1991年。以後、シャブリ、プルミエ・クリュのモンマン、フルショームと徐々に畑を拡張し、現在は約5haの畑を所有する。カリテ・フランスにビオロジーを認定されたのは1997年のことである。

 ビオロジーを実践した理由は上記の「除草剤の排除」「銅の残存量を減らす」こと以外にも、「キンメリジャン階のテロワールをシャルドネというモノ・セパージュで表現したかった」ことが大きい。

「粘土、泥灰、石灰。これらの構成の違いをモノ・セパージュで表現しようとするブルゴーニュは、ビオという考え方と相性が良いと思う」。そう語るフィリップさんはCGAB(Confééraion desGroupements des Agriculteurs Biologiques)の会長でもあり(ビオ界では一目置かれる存在である)、管轄区域の指導や、時に海外まで足を運んで意見交換をするなど、その活動範囲は幅広い。

 そこでビオディナミについて伺った。

「ビオディナミに私が移行しないのは、その決められた手入れの多さ。その手入れ自体を非難しているのではない。ただ手入れを実践するために結局はトラクターをより多く畑に入れる、すなわち土が踏み固められのことを避けたいんだ。ビオロジーもビオディナミも最終的な目的は『土が健康である』ことであって、土と多く働くと同時に、土が本来のリズムを取り戻し始めた後には少しでも介入は避けたい。実際ボルドー液の使用量などは厳密なビオディナミ実践者と私のドメーヌでは変わらない。だからビオディナミ実践者が、ビオロジーを見下す風潮があるのには納得がいかない」。

 そしてフィリップさんの視点は、シャブリの現状に向けられる。その一つが植樹率の低さ。それは仕立てがギュヨ・ドゥーブル(樹間は約1m60cm)であることに多く起因するのであるが、ドメーヌでは徐々にギュヨ・サンプルに移行中である。

 

テイスティング

 

今回のテイスティング銘柄は以下(テイスティング順に記載)。全てボトル・テイスティング

 

     プティ・シャブリ 2002

     プティ・シャブリ 2001

     シャブリ 2002

     シャブリ プルミエ・クリュ フルショーム 2002

     シャブリ プルミエ・クリュ フルショーム 2001

     シャブリ プルミエ・クリュ モンマン 2001

     シャブリ プルミエ・クリュ モンマン 2000

     シャブリ プルミエ・クリュ モンマン 1999

     シャブリ 1998

     シャブリ プルミエ・クリュ モンマン 1996

 

 プティ・シャブリ。辛辣な意見になると「アペラシオンとしての存在価値無し」とまで言われるカテゴリーであるが、ドメーヌ・フィリップ・グーレイはこのプティ・シャブリでも静かに評価されているドメーヌである。実際に素直な果実味(グレープフルーツやパイナップル)やすっきりとしたこの地ならではのミネラルが非常に心地よく、自宅に常備しておけば何時も困らないであろう気の利いたボトルである。

 シャブリのカテゴリー・ミレジム違いで試飲していくと、一貫して感じられるのは飲み疲れないピュアなミネラルと旨味。2003年より顧客の要望もあり初めて新樽を購入したが(プルミエ・クリュに4樽のみ)、基本的には全てステンレス発酵・熟成であり、個人的には繊細で多彩なワインの表情を隠してしまわない為にはステンレスが良いのでは、と思われる(実際樽に頼らずとも、プルミエ・クリュや熟成を経たものほど、ワインによって品の良い辛味、白コショウやエストラゴン、ポワロー、ノワゼットが現れ、ほどよい厚味がある)。

 1996年のモンマンには、古いドラモット(サロンのセカンド)を思い出させる軽いブリオッシュや熟成した酵母感、蜂蜜、キンモクセイ、少し煮詰めたミルクがあり、芯に滑らかなミネラルや1996年らしいかっちりとした酸があり、このドメーヌのシャブリが熟成を経て真価を発揮するタイプであることがよく理解できる。

「澱の旨味をゆっくりと引き出したいから他のドメーヌよりも瓶詰めが遅く、蔵出しが遅れを取る。これが特にAOCシャブリにとっては販売に不利」という言葉に、やはりこの地の名前だけで我先に販売を急ぐ生産者がかなり多いことが察せられるが、シャブリに有名さに見合う価値を求める消費者にとっては、どちらの姿勢が同意できるかは言うまでもないだろう。

 

シャブリ・プルミエ・クリュ フルショーム。この畑は南〜西向きであるが、彼の区画は完璧な南向き。 白々としたこの地表。土壌はキンメリジャン階の、泥灰土石灰質(ジュラ紀)である。
畑にゴロゴロある石はキンメリジャン階特有のもの。石にはシジミ大の貝がぎっしり詰まっている。

 

訪問を終えて

 

 ドメーヌ・フィリップ・グーレイはもっと向上するはずである。というのも口で言うのは簡単であることを承知の上で書けば、コート・ドールで有機的アプローチを試みる生産者にとって常識であること、つまり「低収量」と「手収穫」という観点では、このドメーヌはまだ改良すべき点があると思うからだ(もっともシャブリにおける機械収穫率は95%であり、「選果台」という概念がこの地に希薄なのも現時点では当然なのだ)。

 シャブリにおいてフィリップさんは十分に「異端児」であろう。しかし彼であるからこそ、競合相手はそこそこに名の知れたシャブリの生産者達ではなく、シャブリのテロワールを武器にコート・ド・ボーヌに定めてほしいのである。忍耐、根気、情熱(愛情)、経験の畑の仕事が基礎であるならば、その基礎を経て頭一個飛び抜けたワインを生み出す生産者には、いつも「センス」がある。そして試飲して感じたことは、彼のワインにもこの「センス」がある、ということだ。「シャブリの常識」を小さなドメーヌが覆す日を期待するのである。