Philippe Pacalet 〜自由なワイン〜

(新キュヴェ情報あり)

  (Gevrey Chambertin/Beaune 2003.5.28)

 

 

フィリップ・パカレ氏。生き生きとした目が印象的。ちなみに来年2月に来日予定。「飛行機は苦手なんだけれどね」とのこと。

「シャトー・ラヤスでの修行」、「ビオの神様、故ジュール・ショーヴェ氏(注)の最後の弟子」、「マルセル・ラピエールの甥」、「ドメーヌ・プリュレ・ロックの元醸造長」「DRCの醸造長のポストを断った男」、、、。フィリップ・パカレの2001年デビューを飾った言葉にはどれも申し分ないインパクトがある。

しかし個人的にパカレ氏の凄さを感じてきたのは北ローヌのチェリー・アルマンやジャン・ミシェル・ステファンといった現在最も躍動的な動きを見せるビオの生産者達が、「フィリップ・パカレを知っているかい?」と私に尋ねる時だった。彼らは本当にパカレ氏との関係を誇らしげに、そして嬉しそうに語るのだ。彼らからここまでの尊敬と信頼を得て語られる人間を、私は他に知らない。

そのパカレ氏に実際に会い、マルセル・ラピエールやジュール・ショーヴェから彼が受けた影響を尋ねた時、彼はこう答えたのだった。

「1990年頃、例えばSO2を添加しないワイン造りなんかはまさに革命的だった。彼らの哲学によって実践されることといったら、まるでエネルギーに満ち溢れた大きなうねりのようで、精神的にも身体的にも本当にがんがん響いたよ。でもワインという生きているもの、「動」に対峙する以上、うねりは新しくはあり続けない。今僕がしていることも、10年後には古くなっていると思うよ」。

 この人は「うねり=革命」を起こしただけでは終わらせない。そう直感した。

 

(注)ジュール・ショーヴェ氏

化学と醸造学を独学で学んだ、バイオダイナミックス農法の先駆者。化学肥料と除草剤を投入することで殺されてしまった酵母の代わりに、人工栽培の酵母を用いるワイン造りを批判し、土壌のポテンシャルをワインに活かすべきだと主張、その調査と実験に一生を捧げた。
 醸造においても人工的な介入を行わず、「自然味わいのワイン造り」(シャプタリザシオンを行わない、SO2の使用を出来る限り抑える、ノン・フィルターなど)を提唱した。

畑仕事と醸造

自社畑を殆ど持たないフィリップ・パカレは、彼が独立する前から選んできた無農薬・低収量を実践する栽培農家からブドウを買っているが、勿論彼自らも畑に入り彼の哲学を実践している。

重力システムが採用されている醸造では果梗まで熟した完熟小粒のブドウは除梗されず(彼曰く「徹底した低収量だからこそ可能」)、SO2を使用しない代わりに炭酸ガスを注入して酸化を防ぎながらブドウ由来の自然酵母による発酵を待つ。発酵が始まるとピジャージュを行うが、ルモンタージュは「アロマを損なうため」行わない。発酵期間はミレジムによるが3(2001年)〜4(2002年)週間である。新樽は過剰な樽香を避けるために多くは用いず(使用する場合にも先に他のワインを入れて樽をワインに馴染ませてから使用する)、「発酵によるガスをより保ち酸化からワインを守る」1〜2年使用の樽がメインである。熟成期間中の澱引きは行わず、清澄、濾過も行わない。また醸造に関しては重力システムが採用されている。

ワインはアルコール飲料というより、発酵飲料と捉えている。フロマージュやミソ(あの味噌である)といった偉大な食品も、それ以前に人間の体の中や、生きている土の中でも発酵は行われているだろ。ポテンシャルというエネルギーの移り変わりだからこそ、発酵って興味深いんだ」。

パカレ氏の言葉は時に「真理に近づくことが出来るアーティストの言葉」そのもので、それらは非常に印象的だ。そして彼の言葉の底辺には常にいくつかの共通項が感じられる。その共通項とは「モノ・セパージュ主義」「ラテン主義」「反マニュアル」だ。

 

3つある貯蔵庫のひとつ。写真の貯蔵庫はボーヌ郊外にあり、なんとウイスキー倉庫と折半である!外から見るとこの地下にワインやウイスキーが眠っているとは誰も想像しないだろう。

モノ・セパージュ主義とラテン主義

 彼がモノ・セパージュ主義である理由は、テロワールの表現を最重要視するからに他ならない

「ピノ・ノワールという全く一つのセパージュからなぜ違う味わいが生まれるか?それは、土壌、クリマ、そしてミレジム、すなわちテロワールの違いがそこに表れるからだ。テロワールを表現するという意味ではアングロ・サクソンの介入するボルドー、特にメドックのワインは意地悪だ。アングロ・サクソンには『黒』と『白』は理解できても『Gris(灰)』、すなわちニュアンスを理解することは難しいのかもしれないね」。

彼のこの言葉の後半にはアングロ・サクソンはこう反論するかもしれない。アッサンブラージュこそまさに混ぜ合わせることの妙、すなわち「灰」だと。しかし彼が言いたいことは別にアングロ・サクソン批判ではない。

「数種のセパージュ、過剰な新樽と過剰な醸造技術。それらが掛け合わされてあたかもコンピューターが答えをはじき出すようにワインの味わいが決定されることには共感できないんだ。少し哲学的な話になるので上手く言えないけれど、『ワインを造る』ということにはメンタルの自由があると思う。音楽と同じかな。つまり内部に秘めている自分の思いやブドウのポテンシャルはそれらが爆発的なものであればあるほど、無理矢理コントロールして思い通りの型にはめることはできないと思うんだ」。

 しかし彼は単なる理想主義者ではなく、現実の批判もユーモアを持って受け入れている。

「リベラシオン(フランスの新聞)のジャーナリストがテロワール(Terroir)とティロワール(Tiroir:引き出し)をひっかけてね、テロワール主義は「Tiroir caisse(レジスターの引き出し)」ならぬ「Terroir caisse(テロワールで金勘定を整理する)」って皮肉ったんだ。全くふざけちゃいるけれど、うまい言い方を見付けたものだと思うよ(笑)」。

ところで日本で「ラテン」という言葉から発想されるものは、「奔放」「情熱」、悪いものになれば「いい加減」などであるが、実際ラテンの国フランスで暮らしてみると彼らの実生活は意外と堅実であることに驚かされる。しかし彼らは時に貧しいくらいの厳しい生活環境にあっても、食べること、恋すること、休息することといった楽しみ、すなわち人生の「色」を呆れるほど貪欲に、かつ上手に見つけ出す(きっと他民族にとってはこの「色」の部分が強烈な印象を残すのだ)。そしてパカレ氏に関していえば先述のアングロ・サクソン的な投資による過剰な醸造技術よりも、「畑」という真剣に取り組めば果てしなく地味で厳しい仕事の中に「テロワール」という色を見つけ、それをこよなく愛し楽しんでいるように見えるのだ。

 

反マニュアル

 「発酵という生きているものの横に付き添う時、醸造をどう行うかは重要なファクターだ。でもコツはあっても絶対的な手段なんて無いと思う。手段に囚われた挙げ句、かえってシンプルなワインに仕上がってしまうこともあるんだ。頭で考えるだけではなく、『空気』を肌で感じることも必要だ。

またビオロジー、ビオディナミといった手段もそう。ビオロジーを認定する各団体は色々な基準を設定しているし、実際それらを忠実に守ればある程度のレベルのワインは出来るだろう。けれど大切なのは結局一人の人間としてテロワールという個性どう向き合うか。だから例えばラベルに『ビオであること』を高らかに表示することには僕は興味がない。香水の瓶と同じで、まぁあれも商業主義の固まりだけれど、良いワインの瓶を手に取った時って、不思議と何か感じるものがあるもんだよ。新しさとかとかね。そして土とどう向き合って働いたかは、必ずワインの味わいに結果となって表れる」。

 南ローヌのロマノー・デストゥゼなど、コンサルティングでもその手腕を発揮しているパカレ氏だが、これらの言葉から察するに彼が伝授しているものは所謂「マニュアル」ではないのだろう。

「手段が大切なのではない、大切なのはその手段の先にある目的を考えること」。何度も彼は繰り返す。

 

彼の言葉には過剰さも派手さも無い。しかし「アポイントを取ったからには時間なんか気にするな」と言わんばかりに、彼の「伝えるべき言葉」は次第に熱を帯びてくる。それはボルドーを訪問した時にありがちな洗練と儀礼の狭間のような応対とはやはり対極にある。情熱とは人に伝播するものなのだ。もっと言葉を聞かせてくれ、彼の熱に引き込まれながらそう感じる。

 

テイスティング

 

 今回のテイスティング銘柄は以下である(テイスティング順に記載。一部彼の出し忘れや(!)倉庫移動があり、理解するために理想的な順番ではなかった、との弁)。

バレル・テイスティング 2002(樽の記載のないものは1〜2年ものの樽)

     ジュヴレイ・シャンベルタン(新樽より)

     シャンボール・ミュジニィ(新樽より)

     ポマール(新樽より)

     ポマール

     ジュヴレイ・シャンベルタン プルミエ・クリュ ラ・ペリエール

     シャンボール・ミュジニィ プルミエ・クリュ

     シャルム・シャンベルタン

     ボーヌ プルミエ・クリュ レ・シュアシュー(Les Chouacheux)

     ブルゴーニュ・アリゴテ

     ムルソー

     コルトン・シャルルマーニュ

     ニュイ・サン・ジョルジュ

     ペルナン・ヴェルジュレス

     コルナス

ボトル・テイスティング

     ジュヴレイ・シャンベルタン 2001

 

 2001年のリリース直後よく「パカレは薄い」という評を耳にし、残念ながら私はコルナスしか飲んだことがなかったのでその評に関しては正確に言及できないが、2002年の第一印象は「濃いではないか」。

もちろんその濃さはボルドーや南仏的な濃さとは違い、ピノノワールという「薄い」品種の特性とテロワールの持ち味を存分に生かした、エキス(エスプリという言葉の方が相応しいかもしれない)の濃さである。「軽くて濃い」その味わいは、ブルゴーニュ・ワインのあるべき品を体現し、かつポマールのエキゾティックさ、ニュイ・サン・ジョルジュの瑞々しさ、ペルナン・ヴェルジュレスの良い意味での田舎臭さ、シャンボール・ミュジニィの繊細な色気、シャルム・シャベルタンンの品格ある豊満さ、コルトン・シャルルマーニュの震いつきたくなるようなミネラル、、、そういったアペラシオンの特徴をも見事に表現している。

「2002年は熟したタンニンに裏打ちされた、フィネスのミレジム」というパカレ氏の言葉の通り、一部の世間の評とは余りにも違うこの印象はミレジムの影響もあるだろうが、それにしてもブルゴーニュ以外の何者でもない、一連の美しいブルゴーニュである。

優れた生産者の多くが「ワインの格は骨格と余韻に表れる」、と言うが畑の格の違いもワインから完璧に感じ取ることが出来たことは言うまでもない。

 ところで2003年から、パカレのラインナップに新しいキュヴェが加わるかもしれない。なぜならポマール プルミエ・クリュであるエプノ、リュジアンと、村名アペラシオンであるレ・ヴィニョ(Les Vignots)の区画を新たに手がけることになったからである。これらの区画がどのような形で最終的に瓶詰めされるかは2003年の作柄次第だが、まずは期待を持って待ちたいものである。

 

試飲を続けていくうちに「Le Vin en Liberte」という言葉を思い出した。これは直訳すれば「自由なワイン」という、なんともニュアンスの伝わらない日本語になってしまうのだが、やはりジュール・ショーヴェの哲学を受け継いだグラムノンのエチケットに書かれている言葉である。

限られた微少なテロワールの中で、彼もそのワインも自由である。自由だからこそ、飲み手はそのワインを口にした時にはあたかもグラスから色々な個性の人が立ち上がるような無限の想像力(夢想力?)が掻き立てられ、遊ぶことが出来る。例えば「ムッシュ・シャルム・シャンベルタン(ちょっとアヴァンチュールしてみたいかも。でもその先は!?)」「ムッシュ・ポマール(気の良い最良の友人として大切にキープ)」「マダム・シャンボール・ミュジニィ(彼女からは見習うことは沢山あるわ)」、、、などというように。そして彼もそのワインも、自由の可能性とリスクを知っている。

 

 最後は、パカレ氏のこの言葉で締めくくろう。

「飲み頃が早過ぎただの、遅過ぎただの、そんなことばかりをあたかも重大事のように言うソムリエ達にはちょっと言ってやりたいね。頭を冷やせ、って。何時間か前に開ければいいじゃないか。ワインは楽しんで飲むものであって、(頭にワインをかけるマネをしながら)頭で飲むものじゃないんだからね」。

 頭で飲むな。それがヴィニョロンとブドウの自由な感情が詰まったワインなら、尚更である。