Philippe Pacalet 〜パカレならではの、新酒〜

  (Beaune 2003.11.19)

 

 

 

「2002年のミレジムは11月頃にもう1回飲みにおいで。この頃には各キュヴェの特徴がもっと判りやすくなっているから」。多忙であるパカレ氏の寛大な言葉を胸に、前回の訪問から約半年が経った。そして試飲は2003年の「ボージョレー・プリムール」で始まった。

 

パカレ氏の基本的な考えについては、前回訪問時のレポート「5/23 Philippe Pacalet 〜自由なワイン〜」を参照して下さい

 

ボージョレー・プリムール 2003

 

 

ボージョレー・プリムールを手に、フィリップ・パカレ氏。

ヌーヴォーに付き物の悩みに「色合いや味わいの薄さ」があるが、酷暑であった今年は必然的に「色合いの濃さと糖度」に恵まれ、そこに収量の低さも加わり、ヌーヴォーに限定して言えば「100年に1度の当たり年」という触れ込みもあながち過大広告ではないだろう。

 しかしそんな「天候の力任せ」でヌーヴォーを仕込んでしまわないのが、パカレ氏である。日本への輸出用のみ(12000本)に造られ、今年の日本のヌーヴォー市場で最も注目されているといっても過言ではないパカレ氏のプリムールには、リスクぎりぎりのこだわりが詰まっていたのだ。

 「ヌーヴォーっていうのは、新しい呼び方だからね。新酒を祝う昔からの風習を尊重して、ラベルには敢えて『ボージョレー・プリムール』と表記したんだ。

 そして新酒に求められるのはそのミレジムらしさと同時に、新酒でしか表現できないフレッシュさ。ボージョレーでの収穫は今年8月10日から開始されたが、この時点で果皮は十分に色づいていたものの、種の熟成や最後の糖度の上昇は水不足によりブロックされた状態で、これでは力だけのマッチョなプリムールになってしまうと判断した。そこで『完璧な成熟を経て、酸も維持したブドウ』が『雨によって適度に薄まる』状態を見極めることにしたんだ。天気予報では8月下旬に雨が降ることが予測されており、最終的に収穫を行ったのは8月下旬の雨の後、ブドウが乾いた9月1日だよ」。

 これはブドウと醸造を知り抜いた人でなければ怖くてできない、賭けである。

「そうやって収穫された今年のブドウからフレッシュさを引き出すためには、マセラシオン・カルボニックも短くし、殆どロゼを仕上げる要領で仕込むことも必要だった。また年明けに飲みきることが前提にあるので、プリムールに関しては完全なSO2ゼロを試みたんだ」。

 そのプリムールを口にすると、パカレ氏の狙いがピタリと定まっていることがよく分かる。太陽に恵まれたミレジムならではの、新鮮で健康なイチゴやサクランボがぴちぴちと溢れ出すと同時にパカレらしい滋味があり、フレッシュですいすい飲める喉越しを持ちながらも、甘味が勝った生臭いジュースっぽさは全く無く、非常に綺麗な「ワイン」である。プリムール一つにも、全く妥協の無い人だ。

 

グラピヨン(2世代目のブドウ)の行方

 私は個人的に今年のグラピヨンのポテンシャルに関心を持っているのだが(参照「裏話10/10〜11 〜摘み残しブドウ〜)、パカレ氏も「2世代目の収穫を行った」生産者の一人である。

2世代目の収穫は今までの経験を通じて初めて。最終的な収量は非常に少ないが、今年の2世代目は様々な要素が十分に成熟しており、何よりも1世代目に欠けている『美しい酸』が存在した。人工的な補酸を避けるために、各パーセルから醸造したワインを補酒として利用している」。

 前回のパカレのレポートには「自由なワイン」と名付けたが、やはり彼自身も縛られない人なのである。なぜなら「2世代目の収穫」に対して様々な生産者に意見を聞くが、大方の生産者にとっては「品質の劣る量増し」のイメージが拭いきれず、実践に踏み切るには非常に躊躇するものであるからだ。

「地質学、土壌と醸造における微生物学や細菌学。10年くらい前はそれらをしゃかりきに勉強し、照らし合わせながら畑に向かい、ワインを造った。でも最近は現場に立っていると『何が目的にとって応用すべき必要なことか』は、経験と感覚が自然と導いてくれる」。

 彼の叔父である偉大なる自然派、マルセル・ラピエールが「不必要な科学を切り捨てるために、まずは科学を徹底的に学んだ」と語っている記述を読んだことがあるが、彼らの手段(過程)には、いつも「先を見据えた」目的が明確にある。そして既に目的が昇華している彼らのワインを飲んで、我々消費者やワイン関係者は「一体、どうやってこんなワインを造ったのだろう?」とその個々の手段に目を向けがちなのだが、それもパカレに言わせれば、

一つ一つの手段は、それ自体はとても小さいことで、手段に囚われれば全体像は見えない。大切なのは発酵によってブドウの持つエネルギー(ポテンシャル)がどのように姿を変えていくことが知ることだ。一見ジグザグに見えるこの過程にも、ブドウが進みたい大きな流れがある。SO2無添加一つ取っても、それに囚われて酸化を促してしまっては意味が無い。発酵と酸化は全く違う。我々の仕事はこの流れを感じ取った上で、それを助けるために『何を』応用するか、だ。

 畑においても、そう。ビオの手段に固執して、畑に携わる人間がバランスを崩してしまっては、土壌や気候の声が聞こえなくなるよ。そうなると人間と畑の間に進化は生まれない」。

 「2世代目の収穫」においても、彼はきっとグラピヨン達の声を素直に聞く耳を持っていたのであろう。

 

2002年テイスティング

 

今回のテイスティングは以下(ボージョレー・プリムールを除き、全て2002年)。テイスティング順に記載。

     ボージョレー・プリムール

     ニュイ・サン・ジョルジュ

     ジュヴレイ・シャンベルタン

     ポマール

     シャンボール・ミュジニィ

     ボーヌ プルミエ・クリュ レ・シュアシュー(Les Chouacheux)

     ジュヴレイ・シャンベルタン プルミエ・クリュ ラ・ペリエール

     シャンボール・ミュジニィ プルミエ・クリュ

     シャルム・シャンベルタン

     ムルソー

 

 やはりこの人のワインは自由だ。

一連のワインには私達が個々のテロワールにイメージする定義をベースに、パカレ節(乱暴な書き方ですみません)があり、でも私がパカレのワインに最も惹かれる理由は、残りの部分、すなわち「飲み手に無限の想像力を与えてくれる余地」=「自由」なのだ。その想像力は畑の向きや土壌と言った分析的なものから、ワインの持つ人格にまで、際限なく飛翔していくのである。

「力を込めすぎたワインは、3杯目くらいから疲れてくるだろう?」と彼は言うが、十分な醸造学と栽培学を経た後に、彼が現在到着している「抜き」から生まれる「ニュアンス」の絶妙な域は、なかなか出会えるものではない。

 そして彼が5月に言ったように、各キュヴェの個性は顕著にはっきりとしているのであるが、特に驚かされたのが一連のジュヴレイである。そこにあるスミレや男性的な骨格は紛れもなくジュヴレイのものなのだが、同時にヴォーヌ・ロマネに感じるような「腰に来る」官能が生まれつつある。閉じながらも最も濃密なシャルムなどは今後どのような展開を見せるのか、考えただけでもぞくぞくする。私の知る限り、パカレのジュヴレイはもっともセクシーなジュヴレイだ(ちなみに個々のコメントを記述することはここでは割愛するが、テロワールの新しいイメージを見るのにはポマールとボーヌ プルミエ・クリュ レ・シュアシュー、ピノの繊細な真髄を感じるのには限りなく空気寄りなシャンボール・ミュジニィがお薦めである)。

 ところで樽から試飲した時に素晴らしかったものが、瓶詰めされた時に既に「終わってしまったような」印象を受けるワインに出会うことがある。この杞憂に関してもパカレの考えは明確だ。

「例えばジュヴレイに多く感じるスミレ。この味わい一つ取っても、もし熟成期間中に澱を引き抜いてしまってSO2をじゃんじゃん入れてしまっては、ここまで顕著に表れてはこないだろう。

 しかしここでもSO2一つだけを取り上げて考えるものではない。それは例を挙げれば収穫後除梗をしないところからも始まっている。私が除梗をしないのは、果梗が持つ抗酸化性を尊敬していることの他に、果梗は『木』だから果汁の温度を下げる働きもあるし、果梗がガードとなって種が一気に潰されずタンニンがゆっくりとワインに移し取れること(種からのタンニンは非常に重要)、果梗が酵母の道筋を作り果汁を疲労させるルモンタージュを行わずに済むことがあるが、これらが上手く行って初めて、良質な澱を生み出す健康な果汁が生まれ、醸造・熟成中のSO2無添加に踏み切れるんだ。

 そうやって長い間育くみ、引き出した味わい(ポテンシャル)をボトルに閉じこめるために、瓶詰め時にはSO2を必要最低限入れる。

 最終的に2002年は熟したタンニンに裏打ちされたフィネスを持つ、ヴァン・ド・ギャルド(熟成を待って飲むワイン)になると思うよ。『20年持つ素晴らしいワイン』なんていう点数評価は興味ないけれど、やはり瓶詰め後の味わいを楽しみたいからね」。

 そう、「ワインは楽しんでこそワイン」なパカレが造っているのである。ここは素直に、素晴らしいポテンシャルを持つ2002年の瓶詰めを待つのが、当然の答えであるようだ。

 

双子誕生!

 「予定通りに行けば、今夜双子が生まれるんだ。3人目と思っていたら、いきなり4人になっちゃった」。帰り際、パカレが照れくさそうに口を開いた。まずは少し早いがおめでとう、の乾杯である。

「でもね、色々なことの為に働いているけれど、家族のために働く。これは本当に素晴らしいことだよ」。

 そう語った時の、パカレのぴかぴかした嬉しそうな表情が今でも忘れられない。

 この人の、何とも言えない人間的な暖かいバランスも、私は大好きである。