Domaine Comte Georges de Voguüé 
〜ミネラルなミレジム、2002年〜

(Chambolle―Musigny 2003.11.19)

 

 

フランソワ・ミレ氏。静かな語り口に私はいつも極度の緊張を強いられる、、、。

 今回の訪問の目的は3つ。一つ目はもちろん樽で熟成中の2002年を利くことであるが、後の2つはかなり尋ねにくいことであった。

 まずは最新のベタン(2004年度版)にある、以下のヴォギュエ評である。

「このドメーヌは私達のガイドに載ることを、どうも望んではいないようである。それが彼らの瓶詰めされた数種のワインについて、私達が昨年書いた記事のせいであることはまず間違いないだろう。 (中略) ミュジニィの2/3以上と最良のシャンボール・ミュジニィの区画を所有する彼らの畑仕事は模範的で、醸造に気を遣っているのは分かる。ただ私達は単純に彼らのワインが瓶内熟成において厳しいタンニンを残し、伝統的なブルゴーニュに見られる『絹』を期待できそうにないことを確認しただけなのだ。

 今年はパリで最近のミュジニィ(6ミレジム)を試飲し、その素晴らしさは認めるが、1997年を除き余韻はやはり厳しいタンニンが顕著なもので、出席したテイスターは長すぎる熟成期間か、もしくは樽の品質と合っていないせいではないかと判断を下した。これらのワインは事前の長いアエラシオン(空気に触れさせること)を必要とする完全に還元香が勝ったもので、グラン・クリュを生産する他の生産者のものとは異なるものである」。

 評価は2つ星を維持しているものの、この星も2002年に3つ星から降格されたものであり、市場の人気と他誌の評価、そして私自身がヴォギュエに対して持つ印象とは余りにも異なる。この点を醸造担当者であるミレ氏に伺うことが一つ。

 そしてもう一つは私達訪問者が、ある宅配業者に託された1971年のボンヌ・マールについてである。このボンヌ・マールは日本のコレクターがフランスで12本買い求めたものの1本で、日本で彼と著名なソムリエ数人で試飲した後、コルクに「ボンヌ・マール」と刻印されていなかったせいもあり、「偽ヴォギュエであり3000円の価値も無し」と判断された。結果宅配業者が日本国内をクール便で配送しなかったこと(春)に責任は転嫁され、フランスに出戻ってきた11本の中の1本なのだ(私自身はコレクターもソムリエの名前も全く知らない)。これが果たして本当にヴォギュエの名前を語るに値しないボトルであるか、また責任が転嫁されるほど配送によるダメージが見られるかを、蔵元でミレ氏と共に確認したかったのである。

 

ミネラルなミレジム、2002年

  「2002年は非常にミネラルを感じるミレジムだと思います。ミネラルというのは私にとって『クリスタル』のイメージで、とても純度の高いものです。この純度の高さは美しい酸やみずみずしさが、ワインに『連れてくる』もので、全てのミレジムにあるわけではありません。例えば2000年に私はミネラルを見出しません。これはミレジムの気持ちの一つなのでしょう」。

 ミレ氏の言葉は、「テロワール派」の多くがテロワールの個性を土中のミネラルの差違と関連づけて説明するのと一瞬対照的であるようにも感じられるが、当然ながら土中のミネラルの味わいそのものがダイレクトにブドウ、ひいてはワインの味わいに表れるわけではない。それは酸の質や香りのニュアンスに差違を与えるものであって、ミレ氏がここで指すのは各クリュの土壌が生み出す個性とは別に、2002年に共通してある完成度の高い純粋さなのであろう。

 実際試飲して感じたことも、果実のアロマや酸の美しいコントラストが印象的だった2001年に比べて、2002年は透明感ゆえに非常に「深く」、あるいはレザムルーズやミュジニィなどには限りなく空気寄りな「高さ」を感じる。特にミュジニィはミレ氏の言葉を借りれば「いつも何か秘密を隠している」というクリュの個性もあり、その高さ、変化に富む余韻の長さはミステリアスですらある。

 ところでミレ氏がワインを表現する言葉に対して持つ定義は、抽象的なイメージも含めて非常に厳格である。

「同じフランス人であっても一つの言葉に想起することは異なるし、私自身が的確な言葉で即座に分析出来る人に出会えた、と思えることは非常に稀」と言うミレ氏の前で、私などはかろうじてワインの持つイメージには氏と意見の一致を見るものの、他の殆どの表現用語はことごとく玉砕する。この厳格さ(媚びの全くの無さ)も、もしかすると一部のジャーナリストにとっては余り良い心証を与えないのかもしれない。

 

ベタンについて

 私達の日本語会話の中で「ベタン」という言葉が出た時、ミレ氏が耳をそばだてる気配があった。やはり心にひっかかるものがあるようだ。そこで訪問の2つ目の意を告げ、ボンヌ・マールを樽別に試飲することになり、樽ごとの個性の差を私達が把握したことをミレ氏は確認した上で、こう口を開いた。

「樽に入れた時点でワインの成分は全く同じですが、樽の使用年数の差などによってワインの熟成の方向、すなわちどういった個性が引き出され、また樽によって何が与えられるかには差が出ます。今試飲した中でも樽の焦がした甘味が出ているものもあれば、伸びやかな酸が引き立っている樽もあります。それぞれの樽の個性を把握した上でアッサンブラージュすることにより、最終的なバランスが生まれます。樽のニュアンスだけが突出した状態で瓶詰めを行うことはありません。

また瓶内熟成を要するワインを若いうちに飲むのであれば、十分に時間をかけてその変化を見る必要があるでしょう」。

私が瓶詰め後を試飲した近年のヴォギュエと言えば1996年のシャンボール・ミュジニィ(3年前)であるが、酸の強さにより還元香が出やすいミレジムであるにも拘わらず、特に還元香や樽による厳しいタンニンの印象は残っておらず、むしろヴォギュエらしい良い意味での「細長さ」が余韻にあるワインであったと記憶している。また2年続けて樽から試飲する機会に恵まれているが、樽試飲の段階ではベタンに書かれているような「厳しいタンニン」が着地地点になりそうな予感は感じられない。

現時点での近年のミレジムに対する判断は、どうやら消費者に委ねられているようだ(カラフに入れる必要があることだけは間違いなさそうである)。

 

ボンヌ・マール 1971年

 「私はこの時期まだヴォギュエでの醸造に関わっておらず、またボンヌ・マールのこのミレジムはかつて試飲したことがありません。なので断定することは無理でしょう」。そう何度もミレ氏は前置きをした後、問題のボトルを開栓した。当時のコルクが100%確実にドメーヌ名に並記してクリュ名が刻印されていたかどうかは不明で、リコルクされていないコルク(ボンヌ・マールの刻印は無し)は30余年経ったものらしく、ごく普通にある程度もろくなっている。

 そして味わいはまだ果実味や綺麗な酸を残しながらも、スーボア、皮、黒トリフの熟成香、イチジク様の甘味、丁字様の少しオリエンタルなスパイス、太陽に恵まれたミレジムらしい厚さがあり、何よりも土に帰っていくような長い余韻にボンヌ・マールらしいクリュの格がある。ではこれが「絶対にヴォギュエのボンヌ・マールであるか?」と尋ねられると誰にも答えられないのではあるが、少なくとも良昨年のグラン・クリュが真っ当に熟成したものではないだろうか、ということではミレ氏も含め全員の意見の一致を見た。熱変化による吹き跡や不健康な傷みも見られない(しかもこのボトルは日仏往復後、フランスでかなりの休憩を取った後、ヴォギュエに着くまでまたもやブルゴーニュを4日間車に揺られて旅をしているのである。この悪条件を考慮するとかなり立派なものである)。

日本で試飲され「3000円以下」と切り捨てられたというボトルは、瓶差以前にブショネなど余程何かワインの状態に問題があるものであったのだろうか?もし同じ状態であるならばかなりの悪条件の下で試飲されたとしか考えられない。そして古いミレジムは購入自体にもリスクも伴うものであり、この件では責任を宅配業者に転嫁するべきではなく、コレクターは信頼の置けるショップやオークション、人を介してから買うべきであろう(もっとも偽物が横行するマーケット自体に諸悪の根元はあるのだが)。また12本も購入したのならワインの旅疲れを取るなどして、もう数本試してみる時間は無かったのであろうか?それでも明らかに偽物であることや、配送によるダメージが確信されるならば、返品はそれからでも遅くないのである。

いずれにせよこのワインはこのワインなりに持てる力を発揮して今の姿がある。愛情と責任無しに評価され、たらい回しにされるワインは不憫である。

 

 「Bon ou Mal?(良いか悪いか?の意。続けて発音するとボンヌ・マールになる)」という同行者のベタなギャグに心ならずも(?)受けてしまった、通常は非常に冷静なミレ氏。だがこのワインに場をなごませる力があったことも事実なのだ。残ったワインはミレ氏に託してドメーヌを去ったが、このボトルにとって真の里帰りであったことを期待して、このレポートを終わりたい。