Domaine du Vicomte LIGER−BELAIR 

〜2002年以降、La ROMANEEの鍵を握る若きヴィニョロンに聞く〜

 (Vosne−Romanee 2003.2.24)

 

 

 

 ―ラ・ロマネにおけるブシャール・ペール・エ・フィスとリジェ・ベレール家のContrat(契約)は、2002年に終了しているー

 パリのワインショップの人間なら周知の事実だが、私はこれを聞いた時はまさに「寝耳に水」の感があった。

 そして恥ずかしながらここに告白すると、ラ・ロマネはシャトー・ド・ヴォーヌ・ロマネの所有者であるリジェ・ベレール家のモノポールであることは知っていたのだが、私はこのリジェ・ベレール家をニュイ・サン・ジョルジュに拠点を置く、もう一つのリジェ・ベレール社と完全に混同していたのである(アポイントのためニュイのリジェ・ベレール家に電話をすると、「全くウチとは関係ありません」との答え)。

シャトーより畑を望む。手前はクロ・デ・シャトー、奥の対角線上に並ぶ木の間が、ル・コロンビエの区画。

 ではブシャール・ペール・エ・フィスと契約を結んでいるリジェ・ベレール家とは?一体ラ・ロマネの他に何を生産しているのか?恥の上塗りだがこちらも漠然としか思いつかない。そこで調べていくと以下のワインを生産していることが判った。

*ヴォーヌ・ロマネ ル・コロンビエ(le Colombier)

*ヴォーヌ・ロマネ クロ・デ・シャトー(モノポール)

*ヴォーヌ・ロマネ プルミエ・クリュ レ・ショーム

*ヴォーヌ・ロマネ プルミエ・クリュ オ・レニョ(Aux Reignots)

*ヴォーヌ・ロマネ グラン・クリュ ラ・ロマネ(モノポール)

まさに錚々たるヴォーヌ・ロマネの畑!これほど有名なワインを生産しながら、拍子抜けするほどに無名な(というより日本で正確に認知されていない)ドメーヌ・デュ・ヴィコント・リジェ・ベレール。不思議ではないか。

アポイントが取れた時点で判ったことは、現当主であるルイ・ミシェル氏が若干30歳であり、かつリジェ・ベレール家では彼が7代目にして初めてヴィニョロンとしての仕事を選んだということと、その初ミレジムは2000年であるということだ。

 

 

リジェ・ベレール家の歴史と現在

 

 リジェ・ベレール家の歴史はそのままヴォーヌ・ロマネの一つの歴史である、と言えるだろう。

 軍の高官であった初代ルイがディジョンに家を購入したのは1815年。その後彼の孫である3代目はジュヴレイ・シャンベルタンからニュイ・サン・ジョルジュに至る60haにも上る畑を購入する。しかもその購入した畑には、シャンベルタン、グラン・エシェゾー、エシェゾー、ラ・グランド・リュー、ラ・ターシュ、マルコンソール、クロ・ヴージョ、レ・サン・ジョルジュが含まれていたというのだから、驚愕だ。

 その後変遷を経ながら4代目も1915年以降9つのモノポールを購入するが、1933年彼の死により所有されていた畑はかなり揉めながらも分割され、リジェ・ベレール家もまずは24haを手放すこととなる。そして彼の息子、すなわち5代目であり、現当主ルイ・ミシェル氏の祖父はマレー・モンジュ家の娘と結婚、彼はネゴシアンを職業にする。しかし6代目はワインに関係のない職業(軍隊)を選び、最終的に現当主であるルイ・ミシェル氏には、3,14haのヴォーヌ・ロマネの畑と共に人生の選択の自由が提示されたのである。

 

 「彼は本当に土とよく働く超ビオ男だよ。畑の仕事には馬を使っているし徹底しているね」。

 これは今回リジェ・ベレールを紹介してくれたパリのあるワインショップの責任者がルイ・ミシェル氏を評した言葉だが、本人に尋ねてみると「別にビオではない」。そこで彼に初ミレジムである2000年以降、彼が手がけることによって畑の仕事や醸造上どんな変化があったのかを尋ねてみた。

 まず畑の仕事に関してだが「自分の足で畑に入り、土を知り、ブドウの熟成具合、バランスなどを常に確かめていくことが大切」、また「出来る限り土に近い仕事を満足に行うために、個人的には畑の所有は4haまでで十分」と言い切る。そして具体的に特に変化したこととして、「短い剪定」「9月に入ってからの摘葉と摘果がより厳密になったこと」を挙げた。前者は最良のブドウ樹の繁殖を促すことによって後の腐敗対策等の作業は減り、時間はかかるが自然な形で収量を落としていくことが出来る。また後者だが、ブドウの生育サイクルの中で、5月以降からの一連の展葉や結実・色づきが通常の生育とすると、夏以降の新たな生育は「その年における2世代目の生育」。よって凝縮したブドウを得るには2世代目にエネルギーを分散させないことが重要なポイントとなる。また剪定などの作業は全て月の満ち欠けに関係する気圧の変化を利用して行われる。

 そして醸造における変化としては「ワインのアロマを守るための、重力に逆らわない作業の実践」「瓶詰めまで澱引きをしない」こと「等」を挙げた。「等」としたのには理由がある。なぜなら澱引きを行わないためには、不自然にマロラクティックを早めないことが必要であり、またマロラクティック発酵によって発生する炭酸ガスと澱の上で長期間寝かすことで、ワインは酸化から守られ、よってSO2の使用量も抑えられる。つまり彼が言うように「常に何がどのように作用しているのか判断して」醸造・熟成の各段階でワインに差し出す手を考えていくので、連鎖しているそれらのある一点だけを切り離して「こう変わった」と、一言で言えるものではないからだ。

 

外壁の表札。1835年に亡くなったルイ・リジェ・ベレール氏の経歴は錚々たるものだ。「ナポレオン1世の軍隊の総代官」「レジオン・ドヌール勲章オフィシエ受勲者」「サン・ルイ大十字章」の後には、「シャトー・ド・ヴォーヌとラ・ロマネの所有者」の文字が続く。

シャトー外観

 

テイスティング

 今回のテイスティング銘柄は以下。

バレル・テイスティング 2002年

@ヴォーヌ・ロマネ ル・コロンビエ(le Colombier)

Aヴォーヌ・ロマネ クロ・デ・シャトー(モノポール)

→@Aともに、ヴォーヌ・ロマネの村の中心地にあるシャトーのすぐ下(東)に位置し、ともに粘土石灰質だが、@にはより粘土質が、Aにはより石灰質が多く含まれている。

Bヴォーヌ・ロマネ プルミエ・クリュ レ・ショーム

Cヴォーヌ・ロマネ プルミエ・クリュ オ・レニョ(Aux Reignots:ラ・ロマネの上部の斜面。岩の上に石灰や小石が層を成す、繊細な土壌。樹齢60年)

Dヴォーヌ・ロマネ グラン・クリュ ラ・ロマネ(モノポール。母岩は粘土石灰だが石灰質の構成の影響で根の張り方に制約が大きい。樹齢50−53年。)

ボトル・テイスティング 2000年

Eヴォーヌ・ロマネ プルミエ・クリュ レ・ショーム

 

2002年のラ・ロマネの樽。

 「ピノ・ノワールにはフィネスとエレガンスを探したい」。これはルイ・ミシェル氏の言葉だが、2002年の全てのキュヴェに共通してあるのは「ワイン毎にテロワールを感じるアロマが、5,6年後にはまさに彼の望む方向に変わっていくだろう」という、嬉しい予感だ。

 例えば粘土の多いル・コロンビエにはねっとりとした親しみやすい果実を感じるのに対し、石灰の多いクロ・デ・シャトーにはミネラルとエレガンスを、レ・ショームにはプルミエ・クリュらしい酸の質の高さ、オ・レニョに至ってはクロ・ド・ラロッシュのような「岩」から来る堅牢なミネラルに加えて、モレ・サン・ドニの体躯(色も最も濃い)とシャンボール・ミュジニィのはかなさを備えた心惹かれるワインに仕上がりつつある。

 そしてやはりラ・ロマネ。スミレの純粋さに加え、ミネラル・酸・果実の多様性や、土の香りには高貴なキノコ類の予感がある。しかしポイントは要素が複雑かつ多様であるのに、あくまでも繊細さを保ち、そこに微塵の重さもないところ。樽からのテイスティングなので、決してとっつきやすい状態ではないにも拘わらず、羽根の生えたような美味しさとポテンシャルが十分に感じられる。

 15−18ヶ月の樽熟成と聞いているので市場にこれらが出てくるのは2004年のこととなるが、この「内容のある軽やかさ」がどのように進化していくかは注目する価値がある。

  

ラ・ロマネの今後の行方は?

 

 彼曰く「ホワイトカラーを脱ぎ捨てて」、ヴィニョロンの道を選んだわけなのだが、彼にその揺るぎない決心と哲学を含む影響を与えた人物とは誰なのだろう?

「僕の場合、祖父はネゴシアンだったがヴィニョロンではなかったし、父は全く別の職業を選んだ。だから畑の仕事を家族から学ぶ機会は残念ながら無かったが、隣人達、特に年配の人達は本当に偉大だった。その中でも『カーヴでワインを造るという哲学』についてはアンリ・ジャイエに、また『畑での作業がどのように作用していくか』についてはジャン・イヴ・ビゾ(ドメーヌ・ビゾ。アンリ・ジャイエの隣人にして弟子でもある)に最も影響を受けた」。

 ニュイの多くの生産者から今まで幾度と無く、ヴォーヌ・ロマネの素晴らしい畑を新たに手に入れることがいかに困難かを聞いてきた。ポテンシャルのある美しいヴォーヌ・ロマネの畑を既に所有し、かつアンリ・ジャイエの哲学を知っている勤勉な若いヴィニョロン。恵まれ過ぎている、と言ってしまうのは簡単だが、いきなり本質に立ち向かう経験の浅いヴィニョロンの困難は想像を超えるものであろう。

 

ルイより7代目にあたる、ルイ・ミシェル=リジェ・ベレール氏。「ホワイト・カラーを脱ぎ捨てて」と言うが、やはり漂う気品が何となく違う。ちなみにドメーヌ名に付いている「Vicomte」とは子爵の意。

 ちなみに2002年でブシャール・ペール・エ・フィスとの契約が終了したラ・ロマネ、ヴォーヌ・ロマネ オ・レニョ、ヴォーヌ・ロマネ クロ・デ・シャトーだが、2006年ミレジムからは、畑・醸造・熟成・販売全てがリジェ・ベレール家の手によるものとなる。

 2006年までの推移として、2002年―2005年は醸造したワインの半分をブシャール・ペール・エ・フィスに売却、熟成はリジェ・ベレールとブシャール・ペール・エ・フィス各自で行われる。つまり2002年―2005年のミレジムに関しては「ブシャール・ラベル」と「リジェ・ベレール・ラベル」の2つが存在することとなる。

 ブシャール・ペール・エ・フィス側だけでなく、ルイ・ミシェル氏の父までが契約の継続を望んでいたが、ヴィニョロンとしての人生を選んだ彼の決意は固く、この決意が翻ることはなさそうだ(この件に関してブシャール・ペール・エ・フィス側に問い合わせたところ、長期戦で交渉に臨む予定らしい)。

 彼も間違いなく、次世代のヴィニョロンの一人である。しかも運命の巡り合わせで、間違えなくヴォーヌ・ロマネに選ばれたヴィニョロンだ。そういうヴィニョロンに早急な答えは求めようとは思わない。ボトルの中に答えを、じっくり待とうではないか。