2/24〜25

〜春間近のブルゴーニュ デュガの畑にて〜

 

今回のORGANISATEUR

 私個人で。

 

今回のチーム・デギュスタシオン

 私一人。

 

今回のスケジュール

2/24

パリ発

14:00 Domaine Prieure ROCH訪問

17:00 Domaine du Vicomte LIGER=BELAIR訪問

ジュヴレイ・シャンベルタン泊

2/25

8:00 Domaine Claude DUGAT訪問

15:00 BOUCHARD Pere et Fils訪問

帰パリ

 

 この裏話で散々書いたが、私は出不精である(いや、出不精である以前にただの不精者といった方が良いかもしれない)。昨年末・年始に日本に一時帰国し、再度渡仏後はパリの語学学校に通いながら、ワイン屋さんと試飲会を冷やかす日々。日本にいることがヴァカンスであるというのもヘンな話だが、とにかく日本で温々とした日々を送った後、こういう規則的で平和な日々を送っていると、変則と未知の生活に飛び込むことが生来の出不精も手伝って、いっそう億劫になってしまう。一旦出てしまうと毎晩のように出会った人達、ワイン、風景に興奮しながら眠りに就いているのだから、現金なものなのだが。

 しかし出不精の私の背中を押すように、バレンタインを過ぎた頃からフランスの天気は文字通りの「冬晴れ」。明け方は氷点下の射すような寒さながら、雪にならない冬の雨ほど中途半端なものはないと思っているので、冬晴れ、氷点下バンバンザイ!水色の輝く空に白っぽい空気が美しい。同時に今回ブルゴーニュ滞在のメインの目的は、今年のテーマの一つである「畑仕事の1年のレポート」なので、快晴ならずとも彼らが畑に出なければ取材にならないのである。快晴が続けば続くほどこの快晴がいつまで続くのかが不安になり、誰かと会う度に「来週も晴れでしょうかねぇ?」と尋ねている自分に気付く。

 そしてそんな私の願いが天に届いたのか、パリもブルゴーニュも晴れ続いた!しかも出発の前週末からは、フランス全土で急に気温が上昇し始めた。なんか嬉しいぞ。

 そしてこの嬉しさはデュガの畑でピークを迎えるのである!

 

デュガの畑にて 〜もし私がヴィニョロンの娘だったら〜

 この日デュガとのアポイントは午前8時。畑仕事の取材なので、彼らが仕事を始める時間に合わせると必然的にこうなった。しかしドメーヌに到着すると既に息子さんと娘さんがキャップシールとラベル貼り、そして梱包(ちなみに日本に輸出するためのものだった)の仕事の真っ最中。ドメーヌの朝は早いのだ!

 

 9時にデュガ氏とかのグリオットに到着。日差しが暖かみを帯びてきた。おもむろにデュガ氏はアルミに包んだサンドイッチを取り出し、ちょっと恥ずかしそうに「いや、畑仕事前にいつも食べるんだ。あなたも食べる?」(でも一つしか無い!デュガ様のサンドイッチを半分分けだなんて恐れ多いっす、というか前日の深酒もあり辞退)。そしてサンドイッチを食べ終わったデュガ氏が、サンドイッチを渡すのと同じ気軽さで渡してくれたのが、剪定用の大小2個のハサミ!「剪定、一緒にやってみようか?」

 えーーーーーっ!という感じである。いや、できれば自分でもやってみたかったのだが、剪定の難しさは本で読み(あらゆる本が「素人でもできる収穫と対極にあるのが剪定の仕事である」という風に記述)、パリの酒屋でも散々言われてきた(「剪定?まさか君がする訳じゃないよね。ああ、なんだ、取材か」。そこには言外に「君はするな」が含まれていたような、、、)。しかもこの畑はグリオット。責任重大である。私が切って本当に良いのか???

 取材のため写真とメモも取らなければならないのでまずは作業を見ていることを伝えると、「そうだよね。まずは見ないと分からないよね」と微妙に私の意図が伝わっていない答えが。

 で、まずはデュガ氏の作業を見る。当のデュガ氏はと言うと、

株を数秒見つめる→おもむろに切り出す→整える→終わり

うーん、はっきり言ってこれだけでは理解できる訳が無いぞ!しかし。私は今回の記事(「畑の仕事」)を書くにあたって、剪定については付け刃で勉強したのである。前日もロックで手取り足取り指導されながら、少しは切った。基本的理論は分かる。意を決し、尊敬の念を込めて切ることにした。

 一言で言えば教科書通りの株は分かりやすいが、若木と昨年ブドウを付けなかった株等、変則パターンは恐ろしく難しい。貴重なグリオットを素人の勘で切る訳にはいかないので「すみませーん、分かりません」を連発。畝の向こうにどんどん移動しているデュガ氏はその度に「わかった、わかった、今行くから待っているんだよー!」(すみません、、、)と戻ってきて、おかしそうに「どれがバゲッド(今年実を付ける枝)でどれがクルソン(来年実を付ける更新枝)かな?」。私が答えると「うーん、反対だね」。あれれ?そしてなぜ私が間違えたかを丁寧に教えてくれる。

加えて「そのちょっと上を、ちょこっと、ね」みたいな、普段使う単純かつ早口のフランス語は私にとってはかえって難しい。普段生産者と交わす「SO2添加についてどう思いますか?」とか、フランス語の授業で討論する「コートジボワールにおけるデモについてあなたの意見は?」みたいな会話の方がまだ分かるのである。結果、私のフランス語はグリオットの畑で完全に崩壊。デュガ氏も知らぬ間に私に対する呼びかけは「VOUS(目上、又は余り親しくない関係で使う『あなた』)」から「TU(目下や子供、又は親しい間柄で使う『あなた』)」へ、更に「この歯の付いた刀はScie(ノコギリ)って言うんだよ」「OKじゃないよ、Oui(ウイ)の方が良いよ、フランス語は」と初級フランス語レッスンにまで発展(???)。

ハサミの持ち方、ハサミやノコギリを入れる角度までデュガ氏の指導は細部に渡り、その間にも土を掘り返し、土や石を確かめ、そしてこの季節に芽吹いてきた雑草を手に取り、教えてくれる。「これは、野生のニンニク。春になると青い綺麗な花を咲かせるんだよ。(株を手で分け)これがお父さんで、これがお母さん、小さなのは子供達だね」。

 

春を感じる日差しの中、この笑顔で説明されれば誰だって子供に帰ります、、、。

日はどんどん高くなり、気温はポカポカと暖かだ。土の上に座り込んで株を見つめ、芽を数え、切っていく。土の香り。春を感じる白く輝いた空気。数株向こうには黙々とでも軽やかに仕事を仕上げていくデュガ氏、いや、デュガ氏ではない、この時間だけデュガ氏の存在はまるで「畑のことなら何でも知っているお父さん」だった。お父さんに聞けば何でも分かる!子供の時以来忘れていた、素直な感覚が戻っていた。「切る場所?うん、それは正しいよ」、そう言われると、ホント子供じゃないが単純に凄く嬉しく、「一人で出来た!」はもうエヘン!である。春の陽気が増して気温はますますポカポカで、そして私は妙に幸せニコニコだ。

ブルゴーニュの原風景の記憶に少しだけ入ったような気がした。きっとデュガ氏はお父様に連れられて畑に入り色々教えられ、当然のようにデュガ氏も子供達を畑に連れてきた。畑に受け継がれた、幸せな季節毎の風景。もし私がヴィニョロンの娘だったら、いやヴィニョロンの娘でもない現実の私がワインから完全に離れることがあっても、この幸せな記憶だけは決して消えることはないだろう。

 

正午きっかりに午前の仕事は終わり、ドメーヌに戻るとマダムが2階から身を乗り出し元気に私達を迎えてくれた。

「ごはん出来てるわよ!畑はどうだった?彼女はちゃんと切れたのかしら???」

 

 

BOUCHARD Pere et Fils

 

 ブシャール・ペール・エ・フィスについて、今更私が説明することは非常に少ない。

1995年、シャンパーニュのジョゼフ・アンリオ氏がオーナーとなりテコ入れをしてからの評価の上昇は目覚ましく(言葉で書くのは簡単だが、一度落ちた評判をゼロに戻し更に上昇させる裏には非常な尽力が必要である。「大手だから出来た」という批判に私は賛成できない。大手だからこその「足枷」を克服したことに、まずは敬意を払いたい)、その後の畑の拡張と改良、最近では今年1月から日本でのエージェントがヴーヴ・クリコ・ジャポンからサントリーに変わったこと等、既に全てが古いニュースになってしまう(訪問時2/25、ブシャールにはサントリー製作の完璧な日本語パンフレットが既にあった。当然ながらまた双方の完璧なマーケティングに驚いた)。

今回の訪問の目的は、ラ・ロマネの行方について(参:生産者巡り「ドメーヌ・デュ・ヴィコンテ・リジェ・ベレール」)であったが、以下のワインを試飲して、全てが非常に各アペラシオンにおいて傑出していたことを報告しておきたい。

 

赤(全てドメーヌもの)

モンテリー 1999

ボーヌ・グレーヴ ヴィーニュ・ド・ランファン・ジェシュ 1999

ヴォルネイ・カイユレ アンシエンヌ・キュヴェ・カルノ 2000

ル・コルトン 1999

ニュイ・サン・ジョルジュ レ・カイユレ 1999

白(モンタニー以外、全てドメーヌもの)

モンタニー プルミエ・クリュ 2001

ムルソー レ・クルー 1999

ムルソー・ジュヌヴリエール 1999

コルトン・シャルルマーニュ 1999

 ブシャールでは赤の後に、白ワインのテイスティングとなる。この順番には時々出会うが、ブシャールの意見は

@     白ワインのはっきりとした酸味・甘味の後では、赤ワインが理解し辛くなる。

A     赤のタンニンの後には、タンニンに勝つ強い酸度の白ワイン(今回の場合はモンタニー)で、舌を中和する

というものである。個人的には、ニュイ・サン・ジョルジュ レ・カイユレ 1999を赤の最後に持ってくる事には疑問が残ったが、それ以外は理にかなった順番に思われた。

 

またブシャール・ペール・エ・フィスは常に「ボーヌ」のイメージが強いが、最新号のブルゴーニュ専門雑誌「Bourgogne aujourd‘hui」の「ニュイ・サン・ジョルジュ特集」で、数少ない3つブドウ評価を獲得。多くのニュイ・サン・ジョルジュ拠点のドメーヌと競っての高評価は、また一つこのドメーヌの前進を意味するものではないだろうか?

「ワインを飲む楽しみ」を与えてくれる、数少ない大手であることを再確認できた訪問となった。

 

追記:ちなみにブシャール・ペール・エ・フィスの最新の畑は意外なことに1997年、上記のニュイ・サン・ジョルジュ レ・カイユレである。常に様々な畑を拡大しているブシャール・ペール・エ・フィスのイメージを個人的に強く感じていたのは、主に同社の驚異的な品質アップのためであろう。

 

試飲のボトル。Clickすると大きくなります。

 

番外編 マダム・ビスコットについて

シャルムの風に吹かれる前髪が、なんとなくイイ感じ

 この馬の名前はビスコット(15歳。牝)。彼女(?)とはグリオット・シャンベルタンからシャルム・シャンベルタンに抜ける小道で正午に出会った。

 実は彼女はブルゴーニュで最高齢の「ブドウ畑専門耕作馬」なのだ。

デュガ氏「彼女、今年何歳だったけ?」

馬会社の人「15歳だよ。ベテランだからね。やっぱ、いい仕事するよ」

なんて会話が交わされるところを見ると、知る人ぞ知る有名馬なのかもしれない。

 うーん、しかしこの体躯!競走馬とは当たり前ながら全く違う。実は彼女の隣にはもう一頭雄馬がいたのだが、この雄馬は更に大きく(悠にビスコットより2回りはデカイ)、それは「馬ってこんなに大きな動物だったかしら???」と馬に対する概念さえ変わりかねない巨大さだ。そしてデュガ氏曰く、「凄いがっしりしているだろう?でも彼はもう少し痩せなきゃね」。というのもブドウが繁っている夏の耕作時にこの体躯で畝を通られた時には、ブドウの木を傷つける可能性があるかららしい。

 ちなみにこの日、彼らの午後のご予定は「ルロワのシャルムを耕すこと」。がんばってくださいね!そして名前を聞かなかった雄馬君、夏までに痩せられることをブルゴーニュ・ファンの一人としてお祈りしています!!!