11/20〜22

〜渦中のワイン映画「MONDOVINO」の監督、

ジョナサン・ノシター氏が、オスピスの会場に!!!〜

 

 

 

 

 

今回のORGANISATEUR、チーム・デギュスタシオン

 

私一人であるが、全てのスケジュールはオスピス・ド・ボーヌのスケジュールに乗っ取って。

 

今回のスケジュール

 

11/20

パリ発

ボーヌ入り

16:30 オスピス・ド・ボーヌの全てのキュヴェ(全ロットではない)を試飲

20:00 プレス・ディナー

ボーヌ泊

11/21

10:30 オスピス・ド・ボーヌ記者会見

12:30 プレス・ランチ

14:30 オスピス・ド・ボーヌ競売開始

20:30 レストラン媚竈(びそう)にて、夕食

ボーヌ泊

11/22

畑を見ながら、ノンビリ  帰パリ

 

オスピス・ド・ボーヌ報告は先日のレポート「番外編&速報 オスピス・ド・ボーヌ 2004」を参考にして頂きたいが、裏話は断然、この人で決まりである。そう、渦中のワイン映画「MONDOVINO(モンドヴィノ)」の監督、ジョナサン・ノシター氏が、オスピスの会場に来ていたのだ。

チャリティ・バザーの精神を持つオスピスには、毎年各界からのプレゼンテーターが招かれ、彼らの監視の元で競売にかけられた一キュヴェから生まれる収益は、その年に決められた機関に寄付される仕組みになっている(今年は「マジ・シャンベルタン キュヴェ・マドレーヌ・コリニャン」がそのキュヴェに相当し、落札額5100ユーロの収益はフランスの老人介護組織とユニセフに寄付された)。そしてそのプレゼンテーターの一人として会場入りしていたのが、ノシター氏であったのだ。

 

MONDOVINO(モンドヴィノ)って、何?

 

「モンドヴィノ」。これはワイン作りに関わる人々をインターナショナルに追ったドキュメンタリー映画である。監督はソムリエの資格・実績を持ち、幼少時代をフランスで過ごしたため6カ国語を流暢に操るアメリカ人ジョナサン・ノシター氏だ。彼は友人と二人で3年に渡り、ヨーロッパ、南北アメリカのワイン生産者や関係者をDVで記録、「ワイン業界の今」、特に「ワイン界におけるグローバル化の是非」をインタヴュー形式で浮き彫りにしていく。

今年のカンヌ映画祭では予定外で、招待部門からコンペ部門にエントリー。画像の質は「ホーム・ビデオ?」と思わせるくらいに見辛いものの、カンヌ以来静かな話題を呼んでいた。そして11月3日の公開を機に、フランスの様々なメディアで議論を巻き起こし、今やフランスのワイン関係者や愛好家の中では「モンドヴィノ、観た?」は挨拶代わりである(本当に)。

私も公開当日に早速観に行ったが、いやぁ、まずは単純に面白い。なぜならこれはドキュメンタリー映画、「俳優」はホンモノのワイン関係者だからだ。日本にいても日本の芸能人には疎い私であるが、画面には見知った顔ぶれが勢揃いである。しかも監督の持つDVは大袈裟な撮影機材ではなく、友人と二人、というところも関係者達の油断を誘ったのか、本音や素顔がボロボロと出る。しかしこの映画の神髄は、やはり「グローバル化」と「ヒューマニズム」を、それぞれを代表しているであろう人たちを選び(もしくは3年に渡る取材が、自然とこういう構図になったのかも知れない)、語らせるところにある。

 

ジョナサン・ノシター監督。この物腰の柔らかさに完璧なフランス語&DVでは、関係者が気を許してしまったのも分かるような気がする。ちなみにイタリア事情も頻繁に出るので、イタリアワイン・ファンも必見である。

この映画でグローバル化とは大雑把に言うと、「味の画一化(手段のテクノロジー化)」と「大企業が伝統的な地場産業を吸収する」を指す。そして監督が「グローバル化」の象徴として追跡するのは、言わずと知れたパーカー、コンサルティングのミシェル・ロラン、現在売却で揺れるモンダヴィであるが、一方「ワインとはテロワールに根付いた伝統と個性ではないのか」を言外にインタヴューを重ねていくのは、親子間でジェネレーション・ギャップがありながらも土地に留まるブルゴーニュのドメーヌ・ド・モンティーユ、モンダヴィと揉めに揉めたドゥマ・ガッサクのギバールや、更にはサルディーニャや南米の元インディアンの生産者だ。

ところでこの映画の構図で最もヒール役になってしまったのは、ミシェル・ロランである。100以上の顧客を持つ彼の仕事ぶりを、あくまでも「ドキュメンタリー」としてカメラは最後まで捉えていくが、数分刻みにお抱え運転手のベンツで顧客先を移動し、かかってくる電話もビジネス優先、移動中には煙草で休憩(喫煙直後の試飲はプロのコンサルなら控えるべきだろう)、どの顧客先にもミクロ・オキシダシオン(微酸化)などの技術を伝授するロラン。そして画面は代わり、各国のワイン屋やインポーターに「ロラン味」のトリックを、醸造法とマーケティングの両面から語らせる。そこにロランの「濃い」風貌も加わり、これではまるで時代劇の悪代官。確かに「ロラン味」なるものには私も疑問は持つものの、彼の功績も少しは知っている者として、同情すら感じてしまう。だが彼の功績を知らない者がこの映画を観たら、彼は単純に「金の亡者」にしか映らず、実際に映画館ではロランに対して毎回観客から失笑が出る始末である。映画に同行したワインに特に興味が無いフランス人も「嫌な奴だねぇ」と連発、観客の記憶に最も残る名前とキャラになってしまった。また要するに、どうもこの映画で「ボルドー」は分が悪い(オスピスのプレゼンテーターとしてノシター監督が選ばれたのも分かるのだ。この映画は大いに、フランスの、特にブルッ子の愛国心をくすぐってくれる)。

となると、「イイ者」になってくるのが、前述のモンティーユやギバールで、当HPでも非常にボルドー取材が少なく、ブルゴーニュや他産地がメインであるのは、やはり彼らの「人間とワインの近さ」に惹かれてこそなのだが、特にモンティーユ父・ユベールと、子供達・エティエンヌとアリックスの会話のやりとり、そしてユベールのちょっとした仕草は絶妙な味を醸し出す。余り内容を書きすぎると映画を観る楽しみが失われるので、この辺で内容に関する説明は止めておきたいが、「やっぱ、ワインは人を写し取るのよね」と思わせるには十分である。

 

「ワインを映画に例えると、テロワール=脚本、ブドウ=俳優、人間=監督。違いが生まれてこそワインは美しく、全てがスターである必要もない。そして個性の美しさは欠点すら内包する」と語る監督とその映画に、世論の多くは賛同しているが、フランス多くの産地をグローバル化(資本主義)が救ったことを過小評価しているようにも見える映画の切り取り方には、ロランからはもちろんのこと各メディアで反論や、3立場(監督・ロラン側・モンティーユ側)を交えた討論も展開されている。

もっとも監督の様々なコメントからは、全てを承知した上でこの切り取り方をしたことが理解でき、まずはストーリーの進め方が非常に知的で丁寧だ。またフランスのサイトでは監督が自らワインファンの質問に答えているが、その応答もユーモアを交えながら理論的である。そして何よりも、この監督は「ワインを愛して」いる(と思う)。

映画のポスターに書かれた「ワインはお好き?」の文字。そう、この映画は観る人の「ワイン観」も映し出す力がある。

 

ちなみにオスピスの会場で2分ほど話をした監督は、終始笑みを絶やさない「出来た人」であった。2分の会話というのは余りにも短いが、この日は彼と話したい人が列をなす中、誰にも分け隔てをしない態度は立派である(その親切さが災いして「ノシターは全然席に腰を落ち着けないね」の声が出てしまった)。そして監督曰く、日本では来年夏に封切りが予定されているらしい。う〜ん、来年の夏!?封切りされないよりはラッキーであるが、まさに「旬」なこの映画、夏じゃ遅すぎるのでは、、、?