裏話 2月

アンリ・ジャイエ エシェゾーと、レストランの喜び

(1/30 レストラン・ミチノ ル・トゥールビヨン)

 

 

  東京はいざ知らず、大阪のホテル以外のレストランで、アンリ・ジャイエを置いていることは今や稀なのではないだろうか?しかも数年間、その価格を変えること無しに。

 エシェゾー 1984年。それは1月下旬、豊中の「レストラン・ミチノ ル・トゥールビヨン」にあった。私とダンナは、「これはアンリと縁があったのだ」と超・勝手な解釈をし、思い切って贅沢な夜を楽しむことに決めた。そこでシェフ・道野氏には「1週間後にジャイエを開ける」宣言をし、体調を整えてレストランに赴いたのだった。

 

 その夜が始まった。アミューズに「鮭児とカブのマリネ、キャビア添え」、そして引き続き「蜂蜜でコンフィにしたフォアグラとシナモン風味のフレンチトースト、ソーテルヌのクリーム」」「ドングリ豚の肩肉とリゾット、バルサミコヴィネガーとラム酒のソース」が運ばれる。ああ、美味しい。味が皿から立ち上がる。先日ある食のエッセイストがこのレストランを訪れた時に「道野さん、本当に料理が上手ですね」と絶賛したというが、これは最高の褒め言葉ではないだろうか。細かいことを語るよりも「何て美味いんだ」に全てがある。書き手としてもし「本当に書くのが上手ですね」と誰かに言われたら、私は嬉しい。

 そしていよいよアンリ・ジャイエである。ソムリエと客席の間に生まれる特有の緊張感は、ある種のワインを頼んだ時にしか生まれない類のもので、この瞬間も大好きだ。

 コルクが渡される。久しぶりに見るアンリ・ジャイエのコルクは長く、保存の良さも物語っている。コルクに鼻を近づける。梅とバラ。最も恐れていたブショネの危険は、まず無い。

グラスにワインが少量注がれ、「テイスティングを」の一言が。

しかしこの時点で問題が無いことを確信した。グラスを引き寄せる前に、すでにふわっと甘い香りがテーブルの上に流れたのだ。速攻にOKを告げ、後はアンリ・ジャイエの世界へ。

 

 凄いワインに出会った時、人は原語体系が崩壊する。もしくは語れば語るほど目の前にある本質を表現できないことに気付き語ることを放棄したくなるか、支離滅裂に饒舌になるか。うぅ、とかお〜と言う、取り留めのない呻きがあふれ出し、ダンナと会話として成立したのは「なんでアンリが造ると、こうなってしまうのだろう」「この品のある色気は何なんだ」くらいである。

 そしてアンリ・ジャイエのチラリズム。決して一気には手のひらを明かさず、チラリと、また時には大胆に魅力的な「何か」を変化する香りや味わいで見せ続け、テーブルを舞台に飲み手をその世界にグイグイと引き込んでいく。一回しか無いこの瞬間を最高にドラマティックに魅せる、という点では、オペラのようで、しかもそれはお気に入りの席で見る上質のオペラである。様々な思いがトリップを始めているのを感じる。

 一方料理は「青首マガモのロースト、サルミソース」。料理もヴォーヌ・ロマネの世界である。なぜなら丸ごとで完璧に焼き上げた鴨の4カ所の部位をそれぞれにアレンジしたエスプリとは、「部位」=「テロワール」であり、「アレンジの違い」=「個々の生産者」に思えたからだ。シェフは火を意のままに操るのだろう、余熱でうっすらとピンクを帯びたササミの部分が最高にワインに合う。料理があることで、ワインは更に目の離せないアドリブを繰り出していく。

  このライヴ感こそが、レストランなのだ。全ての責任を他人に任せ、テーブルに座りその世界に没頭するだけで、期待していた、いや今回なら期待以上の「アンリ・ジャイエの世界」を完璧に享受できたのだ。もし、このワインを自宅で開けていたとする。抜栓にも緊張を強いられ、合わせる料理も思い浮かばず、究極の選択「パンのみ」で終わったかもしれない。しかも服装も自宅での正装(?)、ユニクロのジャージ以上になり得ず(私の場合)、しかしそれでは、1本のワインを通して得られる喜びの質が余りにも違いすぎる。

 

 ワインの造り手、シェフ、ソムリエ、そして空間や食器類に至るまで、全ての分野のプロフェッショナルが、一時の思い出を提供してくれる。アンリ・ジャイエという英断(?)を下したことは、私にレストランの喜びをも再度教えてくれた。そしてここに道野シェフと小平ソムリエにももう一度、お礼を申しあげたい。

 

(追記)

「レストラン・ミチノ ル・トゥールビヨン」は、一月末に一旦閉店したが、二月下旬には「LesArts-Santé(レザール・サンテ)」として新しく生まれ変わる予定です。