2003年9月

 

 
 
 当HPでもお馴染み、ラ・レヴュ・デュ・ヴァン・ド・フランス(La Revue du Vin de France:以下RVF)の9月号(474号)は、9月恒例のお楽しみ、フランスの各スーパーで開催される「ワイン市」情報が満載だ(スーパーのワイン市を甘く見てはいけない!この散財レポートは後日)。しかしこのスーパー情報を押しのけて、目に飛び込んできたのが
 

―ニコラは、学者か魔術師か?― 

 



ラ・レヴュ・デュ・ヴァン・ド・フランス
(La Revue du Vin de France
)より

―ニコラは、学者か魔術師か?―

 

   もちろん「ニコラ」とは、かのニコラ・ジョリィ氏のことである。この記事では、今回改訂版が出たジョリィ氏の著書「Le vin du ciel a la terre(邦題:空から地に舞い降りたワイン)」を巡って、ニコラ派代表と 反ニコラ派代表がそれぞれ見解を上梓しており、フランス的ジョリィ氏のポジションを垣間見ることが出来て興味深い。以下に両派の意見を簡単に訳そう。
 

ニコラ派 ミシェル・ドヴェ氏

―完璧に風変わりな宗教だ―

 信念を広めるために骨折りを骨折りとも思わない、ジョリィ氏の根気は賞賛に値する。

 こんな皮肉を言うのも、彼は宗教の人であって、科学の人ではないからだ。そして宗教であることに必要な要素も上手く組み込まれている。まずはルドルフ・シュタイナーという予言者の存在、そしてジョリィ氏に従う忠実な信徒や改宗者。一体この成功の秘訣は何なのだ?

 そんなことはジョリィ氏の著書の目的でないにしても、彼は情熱的に「ビオディナミ」と名付けられた宗教の、その手段と研究目的を彼の著書で解説している。またドグマ(教義)や慣習も詳細に語っている。

 宗教とは倫理と神秘という2つの側面を持っており、ビオディナミはこの2つの側面からも逃れようとはしない。ビオディナミに置き換えると、倫理に相当するのは「ビオロジー」に内包されるロジック、そして神秘に相当するのは「土に活力を与える」という、スピリッツである。もし「ビオロジー」の正当性を誰も討論しなければ、「活力を与える」なんてことは完璧に呪文である。

 例えばジョリィ氏は、こう語る。

「全ての生けるものは、リズムで成り立っている」。そして更には「生命とは質量ではない、周波なのだ」。確かにこれらの言葉は響きが良いが、一体何が言いたいのだ?

 またわざわざ少なくとも千年以上前に亡くなった先人に意見を求めなければいけないような気にさせるのは、とりわけ困った展開である。「自然であることが良い」と信じること、電気、とりわけ電波を懸念すること、科学ではなくむしろ錬金術を好み、そして水や天文学ではなくむしろ占星術を信じること、等々。

 これでは彼の言うところの「化学薬品を濫用して大量にワインを造る愚かなワイン生産者」を、「中世の魔術」に改宗させる根拠を示すに至らない。

 

ニコラ派 イザベル・バシュラール女史

 

クーレ・ド・セランにて。ニコラ・ジョリィ氏
(2002年6月撮影)

―熟考を促す著作―

 もし第3版であるこの著作の「ある1ページ」を開けていなければ、194ページ目をきちんと読みましょう。この資料はスイスで公式に発表されたものですが、そこには「慣習的な耕作」「ビオロジーを用いた耕作」「ビオディナミを用いた耕作」における、植物の根の張り方のシステムが、ドヴェ氏はじめ、子供にでも理解できるように、きちんと説明されています。そしてどのシステムが最も植物に栄養を上手く供給できるのかも。これでもまだ懐疑的なのでしょうか?

 ビオディナミの提唱したルドルフ・シュタイナーの啓示的な引用にも目を向けなさい。彼は1923年に狂牛病の可能性を既に説明していたのです。

 1997年に出版の初版、これはビオディナミをワイン栽培に応用することを初めて一般に説明したものですが、この本に抵抗し続けることは難しいでしょう。

 著者であるジョリィ氏は自分のドメーヌであるクーレ・ド・セランでの経験に基づいてこれを書いています。確かにその中では、ビオディナミにおいて天体の動きに応じてどのように仕事をするのかを説明し、またある側面ではホメオパティ(同種療法)の考えも採り入れていますが、それが単なるマニュアルに走らないように気を遣っています。もし単なるマニュアルであればビオディナミの基本的な理念と全く矛盾していたでしょう。

 彼は農業を生命界に置き換えることを試み、私達を取り巻く日常、すなわち音楽や料理に重ね合わせて幾つもの例を挙げていきます。

 残念ながら今日では追いやられてしまった教養ある領域や農業を、この本は激励するのものです。そこにあるのは観察と熟考です。

 
 

〜記事を読み終えて (堀筆)〜
 

 両者の見解の方向性は読む前からあらかじめ予想できたものではあるが、単純に読み物としては反ニコラ派であるドヴェ氏の過激な展開の方が面白く読めてしまった。だがドヴェ氏の反対論も「もっと証明して見せたまえ」という、ある意味ジョリィ氏に対する激励と解釈できる余地がある。

 

 農業における闇雲な「自然礼賛」を行えば、農業が既に人為的なものである以上、それは必ず矛盾に突き当たることとなる。今は風景の一部となった由緒あるワイン畑でも、最初の一歩は自然破壊から生まれているのだ。  

そこで現代において人と自然の共存を考える時、人為的なものも含めて地球で生命活動を行うものはやはり何らかの天体の影響を受けていると察せられ、農業においてその影響を分析しプラスに利用しようとすることや、化学薬品を使用しないことは葡萄、ひいては環境(地球)や人間にとっても良いはずで、それらはむしろ人知の域に入ると思われる。個人的にはこの点を「ニコラ派」にもう少し力強く論破して頂きたかった(ジョリィ氏の唱えるビオディナミの概念ともずれてしまうかもしれないが)。

 

ワインに話しを戻そう。私自身「土と働く」生産者を取材していると、彼らが純粋に「素晴らしいワインを造りたい」ために取っている手段が、ビオディナミを意識せずとも自然に環境に配慮されたものであり、かつ科学という理にかなっていることを発見することがある。要するに、情熱と培われた知識、そしてセンス(これは重要である)を持った優れた生産者達は、ごく自然に尊敬の念を持って「自然の摂理」にも耳を傾け(その手段の一つとしてビオがある)、結果としてその土地ならではの感動を生むワインを世に送り出しているというのが、現時点の私の個人的な見解である。またビオを選ぶ人(商業的に選ぶ人は省く)には凄く乱暴に言ってしまうと「自然な味わい」を求める傾向と同時に、「凝り性」である傾向もより強いと感じられるのだが、「凝り性」であることは探求心にも直結し、この探求心は秀でたビオ実践者のカーヴから、時に飲み手の概念を覆すワインが生み出されていることによく表れていると思われる。もちろん「ビオであるから美味い」という単純な図式は成り立たない。

全ての生産者がそのレベルの農業を行えば、現時点ではワイン業界が成立しないのも事実ではあるが、「土に立ち帰る」ムーヴメントは歓迎すべきもので、まずは彼らのそのストイックな仕事とその賜であるワインに、心からの敬意を払いたい。

 

ところで私が最後にジョリィ氏にお会いしたのは6月。ボルドーで行われた「La Renaissance des Appellations」であった。

講演会で氏は「天から」と開いた片手を高く突き上げて(脇には大きな汗ジミが、、、)、「地へ」では地面すれすれにまで拳を振り下ろし、そのパフォーマンスに圧倒され目を奪われる余り、肝心の内容が殆ど記憶に残らない、という私にとっては勿体ない結果になってしまった。会場では常に多くの人に取り囲まれ、しかしたった一度の訪問と何回かのメール交換(一個人の質問にも驚くほど丁寧に返信してくれるのである)でしか面識の無い私に対しても、フレンドリーな心遣いを見せてくれる。そこに感じるのは「常人には無いパワー」であり、今や氏が畑に入ることが出来る時間は「?」であるが、氏のワイン自身もパワーに満ち溢れている。

やはり氏ほど圧倒的なインパクトを持ってビオを語ることを出来る人がいないのは現状で、後に氏と袂を分かつ生産者や、もとからジョリィ氏が念頭に無くビオを実践している生産者を考慮しても、「ビオ」という言葉にワイン界でここまでの市民権を与えた人も氏をおいてはいないのである。RVFも氏を「ビオディナミの法王」という言葉で氏を説明しているが、信者がいる、という事実も無視できない。なぜなら余程ヘンな宗教でない限り、やはりそこには何らかの真理があるはずだからだ。

批判されない人など、面白くない。氏の新たな展開を、そしてまずは誌上での氏の熱い反論を、楽しみにしている次第である(RVF、企画してください)。